10年ほど前、帰省していたときに地元でショッキングな話を聞いた。
大企業に勤めていた町内のおじさんが、なにを思ったか、ある日突然会社に辞表を出し、子供が二人もいるのに離婚し、自分の家も出てしまった。
そして小型トラックを買って、今はバイパスの下でその小型トラックに寝泊まりして生活するというほぼホームレス同然の生活をしているという。
で、町内のお祭りでおでんが余ったので、同じ町内のおばさんがそのおじさんのところにその余ったおでんを持っていくと、そのおじさんは号泣しながら食べたという。
「会社で働いてたときは部下が何十人もいたのになぁ。」
と親父は言った。それを聞いた僕は、
「その部下の人たちはおでん(じゃなくてもいいけどw)持っていったりしないの?」
と聞いたら、
「いや、会社辞めたらそら誰も来んわ。『会社』なんてそんなもんや。」
と、3年で勤め人を辞めて自営業になった親父が言った。
「なるほどな、、、」
と、新卒入社しなかった僕が言った。
その時に僕は学生時代に話した40代の人のこの言葉を思い出した。
「政治家は選挙落ちたら『タダの人』って言うけど、サラリーマンもリストラされたら『タダの人』や。」
この地元のおじさんの場合、おそらく元いた会社の部下にとっては『タダの人』になってしまったけど、地元の町内行事には参加していたから『タダの町内の人』ではあったのだろう。
今の僕の言葉で言うと「町内の人」という『A1キーワード』での(A1,B1)関係の人はおじさんの『バインダー』内に残っているけど、「同じ会社の人」という『A1キーワード』での(A1,B1)関係の人は『バインダー』内にはゼロ、ということになる。
しかし、そのおじさんのようにそこまで仕事でがんばっていた人なら「同じ会社の人」でもその行動の理解者は一人や二人はいたんじゃないかと僕は誠に勝手ながら思う。
けど、「会社」を辞めてしまったらもう個人的に会うことは許されない。それが「昭和」という時代までの日本社会なのだろう。
中根千枝が「タテ社会の人間関係」で日本社会の「全人格的参加」と言ったのがこれにあたると僕は思う。
このおじさんは「ウチ」の人から「ヨソ」の人になったのだろう。
昭和までの日本社会では「ウチ」の人と「ヨソ」の人とは完全にドメインが異なっていて、個々のカードはそのベルリンの壁を通過できない「仕様」だったのだろう。
ただ、このおじさんは『会社』という枠組みでは「ヨソ」の人にはなったものの、『村社会』という地縁の枠組みの中ではまだ「ウチ」の人だったため、おじさんは号泣しながらおでんを食べたのだろう。
最近、その「昭和」の「仕様」が変わってきたと僕は思う。
僕の友達がこの9月で会社を辞めた。
対会社で言えばけして円満退社ではないのだが、それでも何人かは彼を慕って個人的に「今度また飲みましょうよ。」と誘ってくる。facebook申請希望してくる人もいたらしい。(彼はfacebook自体してないのだが)
同様にそのさらに前の会社の人たちとも彼は未だに繋がっていて、今も毎日のようにモンハン4のオンライン上でいっしょに狩りをしていたりする。(もちろんその会社を辞めた理由も円満退社ではない)
僕の別の友達は彼とは逆にこの10月に無職を脱出して新しい仕事に就いたのだが、そこの新しい上司は彼と同じく、昔、むちゃくちゃな営業をする会社の社員で病んでしまい、それが機会になり独立したのだという。
だから彼の履歴書上のブランクや、今年の春にたった2週間で辞めた仕事については面接で全くなにも言わなかったという。
それを聞いた僕は、とっさに、
「その人、facebookかtwitterやってるなら、できれば繋がっておいたほうがいいよ!」
と言ってしまった。僕の言葉で言うと、
「それは『レアカード』だから『バインダー』収納できるならしておいたほうがいい!」
ということだ。
この200年間、アメリカから黒船やマッカーサーやレーガンやwindowsがやってきて、日本社会をいろいろ変革したけど、それは単に日本社会の「枠組み」をアメリカの都合のいいように変えただけで、日本人は相変わらず変化した「枠組み」の中で江戸時代と同じノリで「ウチ」だ「ヨソ」だと言っていた気がする。
もうほんの2010年くらいまで。
が、facebookとtwitterが上陸してからは「枠組み」というもの自体が静かに変革している気がする。大砲も銃剣もゲバ棒も見えないところで最新の「CT(コミュニケーション・テクノロジー)」が上陸したんだと思う。
僕の言葉で言えば『バインダー』という概念が「ウチ」と「ヨソ」しかなかった日本社会で初めて誕生したのかもしれない。
これは僕は黒船来航や終戦に匹敵するくらい、いやそれ以上の変革だと個人的には考えている。
突然だけど、僕は日本で「式」と名のつくものが大嫌いだ。「入学式」「卒業式」「始業式」「終業式」「入社式」、、、「結婚式」も嫌いだ。
子供のころから「いらんやん」と思っていて、大学の「卒業式」も行かないつもりだったが親が来たのでしぶしぶ行った。が、ずっと寝ていた。
(牙突も「零式」だけはなぜ敵の上半身がふっとぶのか理解できないので嫌いw)
「結婚式」も出席したのは妹と弟の式くらいで、友達の結婚式は出たことはない。(めちゃくちゃお願いされて二次会だけ私服で行ったことはある)
今年、従兄弟の結婚式に招待されたが行かなかったw
同様に「同窓会」も全く行かない。理由は当然、全員が(A1,B1)関係ではないからだ。
むしろ「同じ高校」とか「レンジの広いキーワード」で寄ってくるカードはちょっと「アレな人」が多いと思う。
僕自身がものすごくA1ならこっちからどうにかしてコンタクトとるし、僕自身にものすごくB1なら向こうのほうからどうにかして東京まで会いに来るはずだ。
「好きでも嫌いでもない人」というのは僕の言葉で言うと、
「人生の資本①②③④⑤を投資するまではA1ではない人」
になる。つまり特段嫌いではないけど「A2な人」なのだ。
同様に「前の仕事」も僕は同じだと思う。特に派遣社員や、正社員だったとしても派遣・駐在業務がメインの会社の社員なら、
派遣元にも(A1,B1)(A1,B2)(A2,B1)(A2,B2)の4種類の人間がいるし、
派遣先にも(A1,B1)(A1,B2)(A2,B1)(A2,B2)の4種類の人間がいることになる。
僕はこの時代、「前の仕事」の派遣元であろうが、派遣先であろうが、高校の同級生であろうが、大学のサークル仲間であろうが、
今まで会ってきた(A1,B1)な人間だけを『バインダー』に収納し、他のカードはバッサリ切って、自分だけの「ドリームチーム」を作るべき
だと思う。
で、その「ドリームチーム」のメンバーにだけ傾斜的に人生の資本①②③④⑤を投下し続けるべきだと思う。
親族かどうかさえも関係ない。すべては(A1,B1)関係かそれ以外かだけ、『レアカード』かどうかだけ、だと思う。
「会社のため」「母校の後輩のため」ではなく、その「ドリームチーム」のメンバーのためだけに『A1能力』を日々磨き、その「ドリームチーム」のメンバーとよき「トレード」をするためだけに日々カード探しをするべきだと僕は思う。
僕は『日本』という『カントリー・カード』を引いた人間である以上「餓死」することはまずないと思っている。
「日本は餓死するくらい仕事がない!」という人が時々いるが「じゃあ、餓死した人を見たことあるの?」と聞いたら「ない」と答えるw
けど、そんな豊かな『日本』という『カントリー・カード』を引いた人が、自殺したり、病んだり、わざと行政機関に頼らずホームレスになったりするのは、縄文時代くらいから2010年くらいまでずっと続いた集団への「全人格的参加」を引きずっていることが原因だと僕は思っている。
つまり「飢え」ではなく「孤独」で死ぬのだと思う。
ホームレスになったおじさんも、あのおでんを食べなくてもたぶん餓死はしなかったと思う。でもあのおでんを食べることで、自分が属していた社会に対する「認知欲求」が満たされたからこそ号泣したのだと思う。
そう言えばあの町内のおばさんたちが寄ってたかって大量生産するあの『祭りのおでん』は昔からなぜか独特の味がしていた。おじさんは「ああこの味や。。。うちの町内のおでんや。。。昔といっしょや。。。」と思ったに違いないと思う。
(そしてもしかすると、おでんを持って行ったおばさんと、そのホームレスになったおじさんとは「町内の人」以外になにか別の共有する『A1キーワード』があったのかもしれない)
誤解を恐れずに言えば、僕は「この世界」はすでに「飢餓」は克服しつつあると思う。
人は「飢餓」ではなく「孤独」と「絶望」で自ら死を選ぶんだと思う。
「飢えて死ぬ」のではなく、「疲れて死ぬ」んだと思う、で、それは広い意味での「ソーシャル疲れ」だと僕は思う。
しかし、自分の『バインダー』内に『激レアカード』とまではいかなくても『準レアカード』が30枚、いや5枚でも入っていれば「孤独」と「絶望」は回避できるんじゃないか、と思う。
最近、ネットやリアルで時々見る「今、無職です!w」「ニートです!w」と笑ってる人たちはもしかするとすでに「ドリームチーム」ができていて、さらに『レアカード』が30枚オーバーな人なのかもしれない。
だから僕は「この世界」が次に克服するべきは「飢餓」ではなく「疲れ」、特に「ソーシャル疲れ」だと考えている。
これから必要なのは「ベーシック・インカム」ではなく、『バインダー』内に「ドリームチーム」を作るという発想と、その「作り方」の洗練された方法論だと思っている。
それが僕の『A1理論』!