変わりゆく人間社会と、変わらない自然との対比が秀逸ですね!杜甫さん!
『絶句』を得意とし、『詩仙』と呼ばれた「李白」に対し、
この杜甫は、『律詩』の表現を大成させたとも言われ、『詩聖』と呼ばれることもあります。
この詩は『春望』というタイトルで、全文の意訳は、
戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、町は春を迎えて、草木が生い茂っている。
時世のありさまに悲しみを感じて、(平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、(心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。
うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。
心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし)もさすことができないほどである。
時の皇帝・玄宗が寵愛した楊貴妃に取り入った安禄山が起こした▼「安氏の乱」によって、唐の都・長安や洛陽が陥落し、滅びゆく国家を杜甫が嘆いて詠んだ詩です。
この詩の意訳を読んで思い出したのが、先月、ミニマリスト達と行った、▼上諏訪の山側の風景でした。
家などの建物はいっぱいありますが、
歩けど、歩けど、人一人通らない。
家をよく見ると、
「これ、空き家だし、しかも、長らく人が入ってないなぁ。」
という家も多いです。
御柱祭の後でしたが、なんというか、全体的にゴーストタウンみたいなんですよねぇ。
上諏訪の方々には申し訳ないですけど。
で、これはなにも上諏訪に限ったことではなく、下諏訪もそうだし、尾道もそうだし、僕の故郷、姫路もそうです。
『バブル崩壊後の地方都市』
は、どこもこんな感じがします。
なんというか、街のサイズが大き過ぎる割に、人が少ない。
下諏訪にも、バブルの頃は劇場があったと言うし、昔の下諏訪の写真を見ると、道端に人がごった返しています。
毎日、御柱祭のようだったのかも知れません。
で、そんな上諏訪の山の上から、ミニマリスト達と坂を下っていると、、、
▼梅の花が咲いていました。
この4月上旬は、長野ではまだ桜は咲いておらず、咲いてたのは梅の花だけでした。
空き家だらけで、人の気配がほとんどない場所に、梅の花が鮮やかに咲いている。
まさに『春望』ですな。
梅の花からしてみれば、空き家が増えようが、人口が激減しようが、そんなことは知ったこっちゃない。
ただ、いつも通り、花を咲かせるだけだ。
人の世がどれだけ移ろうと、自然はほとんど変わらない。
人間だけが、短いスパンで、売り上げが落ちただの、工場を移転するだの、人件費が高騰してるだの、派遣を切られただの、騒いでる。
そんなのは、自然の中では極めて短期間の変化であって、そもそも絶対的なものではない。
杜甫の時代に長安が滅びたことも、
今の日本の地方都市が寂れたことも、
自然は最初からそうなることを知ってたのかもしれない。
大自然のホメオスタシスみたいなもので、驕れる者も久しからず、盛者必衰の理を、自然はちゃあんと理解してるのかも知れない。
もしかしたら、人間だけが、まだまだ若く、厨二病的に『永遠の繁栄』を目指してるのかも知れない。
でも、そんなものは永遠に来ず、いつか人類自体が滅び、『文明』の上に草木は茂り続けるんじゃないかな。
あ、こんな『バブル崩壊後の地方都市』の、「昭和」が漂う物悲しい雰囲気がちょっとだけ好きな、変態おっさんの記事が『バズってどうする!?』