2021年10月12日夕方。
Apple Store丸の内でiPhoneのバッテリー交換をしたあと、時間が少しあったので、夜の日本橋周辺を散歩しました。
今回はその小旅行について書きたいと思います。ちょっとした東京の旅エッセイとしてお楽しみください!
Appleストア丸の内からお玉ヶ池跡までの寒くて長い道のり。
▼この日の夕方にApple Store丸の内でバッテリーを交換した後、日本橋周辺をぶらぶらと歩きました。
ここで言う『日本橋』は狭い意味での「日本橋駅周辺」と言う意味ではなく、思いっきり広いエリアの「日本橋エリア周辺」のことですね。神田駅の東側から隅田川まで、秋葉原の南側から日本橋川まで、という感じの広いエリアです。
僕は昔の営業の仕事で近所を通り掛かってからずっと気になっていた「お玉ヶ池」の近くの銭湯『お玉湯』に入ってみたいなーと思ってたんです。でも、意外とこの辺をぶらっとすることってあまりなくて、今回は願ってもないチャンスだと思ったんですね。
ただこの日はあいにくの雨で、さらにApple Store丸の内から出たら雨足も結構、強くなっていて、とりあえず、この辺は僕は最近の仕事でよく来ていたので地理感があり、まずは東京駅の地下に潜り、八重洲口北口まで行きました。
そこから地上に出ましたが、やはりまだ雨がそこそこ強く降っており、すごく寒く、「このままこの地下に走っている東西線で高田馬場に戻ろうかな?」とも思ってしまいましたが、着替えも持ってきているし、せっかくのチャンスなのでこのまま北上して『お玉湯』まで行こうと決意しました!
雨の中、橋を渡り、日本銀行の横を通り、三越本店近くまで来た頃、まだまだ先が長いと実感し、やはり何度かくじけそうになりましたが、どうにかこうにかカサをさして、北へ北へと進みました、若干、「俺、今何やってるんだろう」的な心境でした。
そして『お玉湯』まで来たのですが、まえにきた『お玉ヶ池』の児童公園がどこかわからず、また雨の中ウロウロ。ここら辺を営業活動してたのは2017年の夏だったのでかなりうろ覚えでしたが、どうにか小さい神社を発見し、『お玉ヶ池』の児童公園も発見、そして念願の銭湯『お玉湯』に入ることができました。
ちなみにバッテリー交換直後のiPhoneは動きがもっさりしていてイライラ、しかも充電が7%ほどしかなくてモバイルバッテリーに常時つなぎながらポケットに入れて雨の中を歩いていました。
20歳からの思い出がいっぱいの神田や日本橋周辺。
この神田や日本橋周辺、歩けば歩くほどピンポイントな思い出地点がいくつもありました。
東京駅八重洲口を出てすぐに見える建物は2019年に▼ゲストハウスサミットがあった建物ですし、その直前に某派遣会社の登録でも来ました。
三越本店は僕が東京に来てすぐに学生寮の先輩に誘われてバイトに来た場所です。確か出会ったばかりのエスタークもいっしょに来たはず。
少し歩くと2018年に職業訓練校に行ってた時に「なんちゃって就職活動」で当時の仲間と来た会社もあり、つい最近の仕事で営業活動で来た会社も近くにあります。
その後、さらに北に歩いていくと2017年夏に外回り営業していた千代田区岩本町エリアで、むちゃくちゃ懐かしかった。まぁその時に見つけた『お玉湯』に向かって歩いてきたので懐かしいのは当たり前なのですが、「あの時も俺は暑い中、頑張っていたなぁ。」と思った。
そこから東に行くとゲストハウス密集エリアで、もうここは2016年くらいから何度も来て、いろんな人とのオフ会の会場になったお店やゲストハウスが密集してて懐かしいにもほどがあるエリアですね。いろんな人と来たYADOKARIさんの▼『BETTARA STAND』もこのあたりにありました。(現在は閉店)
そういえば、今年の3月の緊急事態宣言明けもブログ仲間の▼とれいCと飲みに来たな。
なんていうか、この辺は僕が20歳で東京に出てきてからの思い出、特にここ数年の思い出がいっぱいなエリアでした。
でもいつも仕事やなにかの用事で来るし、誰かと来ることも多かったので、1人で銭湯に入るためだけに来る、というのは自分自身の過去と対話しているようで良かったです。
お玉ヶ池跡を再訪。そして銭湯『お玉湯』で冷えた身体を温める。
というわけでお玉ヶ池周辺に到着。
まずは銭湯『お玉湯』の場所を確認したんだけど、懐かしのお玉ヶ池跡の小さな児童公園に行きたくなり、近くをウロウロ。小さい神社も発見したのでお参り。この神社、2017年夏の営業の時に来たのかどうか思い出せない。あの時、むちゃくちゃ暑かったしな。。。
そして神社の横に書かれていた『お玉ヶ池』の名前の由来を始めて知って少し怖くなる。▼wikiによると、、、
『江戸名所図会』によると、あるとき「人がらも品形(しなかたち)もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸(なきがら)は池の畔(ほとり)に葬られたとある。 人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷を建立して彼女の霊を慰めたという。
それで『お玉ヶ池』って言うんだー!知らなかった。。。そして江戸時代は不忍池くらいの大きさがあったんだ!
この『お玉ヶ池』周辺には坂本龍馬も入門していた北辰一刀流の千葉道場があったり、東大医学部の前身の▼『お玉ヶ池種痘所』もあったとのこと。19世紀に日本の感染症対策の最前線で戦っていた人たちがここにいたんだなぁ。
そして今、この記事を書きながら▼この司馬遼太郎のこの『街道をゆく』の神田界隈をめっちゃ読みたくなったw
というわけで、思い出の小さな児童公園も発見し、一応、暗い中で写真を撮る。近くでサラリーマンが会社のパソコンの話を大声でしていて、「あー、俺もこんな感じだったな。」と思い出す。仕事に夢中で、江戸の名所にきても感慨にふけることができない。
その後、念願の『お玉湯』へ。はじめての銭湯ってちょっと緊張する。でもまぁ問題なく中に入る。脱衣所には数人、お客さんがいたけど、湯船は貸切状態だった。
『お玉湯』自体はいたって「普通の銭湯」で、僕は最近の都内の銭湯では一般的になった備え付けのシャンプーとボディソープで身体を洗って湯に入る。僕は家では湯シャン&タモリ式入浴法なんだけど、銭湯でそれやると変態のように見られたり、近くのおじいちゃんが「これ使いな」と石鹸とかを貸してくれたりするので、最近はめんどくさくなって「銭湯の時はシャンプー&ボディソープする」という風に決めていたのですが、よく考えたらこの日は貸切だったんだから別にこの行為は不要だったなwまぁ始めてきた銭湯なので。
『お玉湯』の浴槽は3つあり、僕は身体が冷えていたせいか、どれも熱めだった。久しぶりの銭湯で、しかも雨の中歩いてきたので、貸切状態の浴槽で身も心も温まる。途中で引き返さなくてよかった。
ただ湯の温度が熱いのと、水風呂がないので「交互浴」ができず、20分ほどで上がる。でもこれが結果的にこのあとの20時までのCITANカフェを堪能できて良かった。
『お玉湯』の外に出ると雨が上がっていた。身体も温まったことだし「もう少し散歩しよう」と思った。
そのまま南に歩いて行く、緊急事態宣言が明け、日本橋エリアのカフェや居酒屋にはちょくちょく仕事帰りのお客さんが入っていた。
吉田松陰の終焉の地で44歳の生き方を再度考える。
次に訪れたのは▼前にも来たことあるけど吉田松陰の終焉の地だ。(ああ、ゲストハウス『IRORI』も閉館しちゃったのか。。。囲炉裏の雰囲気がいいゲストハウスだったのにな。。。)
44歳の誕生日に偶然、吉田松陰の▼この言葉に出会って、なんとなく、ここにまた来てみたくなった。
ただ前にも来た時も夜で、場所が場所だけに怖く、今回もまた夜で怖いwお参りだけして立ち去るw(この目の前にも銭湯『十恩湯』がビルの2階にあります)
この吉田松陰、29歳で亡くなったのですが、もっとやりたかったことがいっぱいあったんでしょうね。多分、外国にも行きたかったでしょうし、もっといろんなことを学びたかったんでしょうね。そう考えると44歳の僕は心身ともに健康で、コロナが明ければ海外に行くことだってできる。自分はなんて恵まれてるんだと思った。
もう▼この吉田松陰のwikiの「発言」のところなんて名言の宝庫じゃないですか。
立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
吉田松陰
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬に過ぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(本当の誠実さを持ちながら行動を伴わない人はいない、本物の誠実さがあるというのであれば、行動しなさい)
そしてやはり▼司馬遼太郎の吉田松陰が主人公の物語が読みたくなるなぁ。
早死にしたジョブズと同じようなことを言った吉田松陰。僕も自分だけのオリジナルな人生を精一杯生きていきたいと思った。(まぁでも無理は禁物だな。このあとぶっ倒れたので。。。健康第一!)
コロナ前の思い出いっぱいのゲストハウス『CITAN』にまた来れた。
そしてなんといっても▼ここに来たかった!ゲストハウス『CITAN』の地下のバー!
ここは一時期かなり来てました。2017年〜2018年あたり。ミニマリストオフ会やブロガーオフ会がピークだった頃ですね。
その後、はてなブログのブロガーの多くがワードプレスに移行し、オフ会自体が落ち着き、個人的には僕は2019年から始めた新しい仕事が忙しくなり、さらにここ1年半はコロナ禍でゲストハウス自体がピンチで、閉鎖したゲストハウスも少なくない。
この『CITAN』のゲストハウスバーは地下がメインで、コロナ前はライブをやっていたり、平日夜でも人が溢れるくらい混み合っていて、奥のソファスペースなんて取り合いだった。
この日の僕は19時過ぎに到着。1階のカフェでコーヒーは注文できたので注文し、店員さんに「下に降りてもいいですか?」と聞くと「いいですが20時までです。」とのこと。緊急事態宣言が明けても自粛営業が続いていた。
下に降りるとバーカウンターには中にも外にも人がおらず、イスやソファースペースにもほとんどお客さんはおらず、そのわずかなお客さんも会話の内容から『関係者』という感じだった。コロナ前はバーカウンターの中でお兄さんたちが忙しそうにお酒を作ったりしていたのだが、今は全体的に誰もおらずひっそりしていた。音楽も鳴っていない。雨が降っていなかったらまだ人がいたのだろうか。
コロナ禍で閉鎖したゲストハウスが多い中、『CITAN』が生き残ってくれたのが嬉しいような、でもひっそりしているこの地下のバーが悲しいような、そんな複雑な感覚で、僕は以前はミルクと砂糖をたっぷり入れていたブラックコーヒーを飲んで、せっかく誰もいないのでいろんな写真を撮った。
なんだか時が止まってしまっているような『CITAN』のバー。最後はもうバーは関係者のみで、1人客の僕が長居してもなんだろうと思い、20時まえに上のカフェにコーヒーカップを返し、駅に向かった。
帰宅後に考えたこと。
そして、1時間くらいかけて帰宅。
44歳の僕は身体のサイズがミニマムになっていた。今後の人生、健康に生きていくために気を配りたいお年頃。
そんなところは吉田松陰みたいにならなくてもいいなぁw
そして仮眠し、この記事をバッテリー交換したiPhoneSEで試しに音声入力で書いて、朝方、ぶっ倒れるように寝てしまい、目覚めたら夜だった。
なんだか、健康なのか、疲れているのかわからないつぶやきをしたあと、また眠くなって仮眠し、その後、iPhoneのバッテリー交換の記事を書いてアップし、そして今、この記事を書いてアップしようとしている。
残りの人生、こんな感じで、辛艱に負けず、自分にも負けず、でもマイペースで生きていきたいと思った。