単なる日記です。人生に役立つことは特に書いていません。
2022年4月11日の午前2時頃のつぶやき。
ある44歳の男がこの日、高田馬場の夜桜の下で▼こんなつぶやきをしました。流行りのFIREのことを書いた記事の引用で。
その後、連続で以下のようにつぶやきました。
ただ個人的には20代のうちはガーッと働いて奨学金を返済したり、生活防衛費を貯めたり、特定分野の経験値を満足するまで上げるべきかと。
俺はまず実家の借金を落ち着かせて、奨学金を繰り上げ返済し、引っ越しし、生活防衛費が貯まった34歳から失業保険を利用した公的サイドFIRE生活してる(笑)
物価の安いアジアの長期バックパッカーって日本社会のブラック労働に疲れ果てた人たちなので、普段はだらだらしてるけど、ゲストハウスの棚とか壊れてオーナーが困ってたりすると必死になって無償で直したりするんだよねぇ。
なんていうか『労働』に飢えてる(笑)
これが人間の本質なんだろうなぁ。
アジアのゲストハウスの修繕なんて日本人バックパッカーには無償労働だし、有償だったとしても大した収入にはならない。
彼らはおカネが欲しいのではなく、『労働』が欲しく、さらにゲストハウスという小さなコミュニティに貢献出来ることが嬉しいんだろうなぁ。
本来の『労働』ってそうあるべき。
あと適度な労働は健康にもいい。
何歳になっても元気な高齢者に共通するのは『適度な労働』をしていることらしい。『適度な労働』がないと若くてもボケる。
『LIFE SPAN』的にいうとおそらくサーチュイン遺伝子に適度な訓練が行き届いているからなんだろうな。
30代半ばから人生のスピードを落としてきた俺だけど、30代後半にはブログ仲間やゲストハウス仲間も出来、40歳過ぎには実家も本格的に落ち着き、40代前半にはインデックス投資も出来るようになり、ダイエットや健康維持も成功しつつある。
準備が整ってきた。ここからは長年の『夢』を叶えていきたい。
その後、家に帰って、寝転びながらスマホで以下のようなブログ記事を書いた。
僕が24歳の春に高田馬場の夜桜を見ながら考えていたこと。
24歳の春もこんな風に高田馬場で夜桜を見ていた。
あの頃の僕は就職もせずに大学を卒業したけど、ただただ『開放感』に浸っていた。
幼稚園、小学校、中学校、高校、最初の地元の大学、2回目の東京の大学と、ずっと続いた集団生活からの『開放感』だった気がする。
親ガチャハズレ人生だったので、この24歳までの学校生活でもずっとスクールカーストは最下層。
2回目の大学も夜間学部で二浪扱いでビンボー学生寮生活。学生寮の外では昼も夜もバリバリ働いてて、学生ながら年上の社会人に評価されたりはしてたけど、学生寮に帰ってきたらあたりまえだけど大学生・寮生ばかりで、そこは学校の往復しかしてない大学生、いや学校すら行ってない狭い寮生社会で、そこでは僕はあいも変わらず幼稚園時代からずっと続いてるスクールカースト最下層な身分。
正直、就職してもこのスクールカースト最下層がこれからも永久に続くだけだと思ったし、そもそも自分は集団生活に向いてないと思った。
だって幼稚園から24歳まで一貫してスクールカースト最下層なのに、僕自身は無駄に根拠のない自信があるんだから、そりゃ衝突するわな。
ちなみにこの『カースト最下層人間なのに根拠のない自信があって、常に上位カーストと衝突』という僕の人生の傾向は子供の頃から30代前半まで続いた。いや、もしかしたら今も続いているのかもしれない。しかし僕自身はケンカが好きなのではなく、ただただ「カースト制度がなく、いちいちケンカしなくてもいい世界」に行きたいだけだった。
就活に話を戻すと、当時は「就職『超』氷河期」と言われていて、面接のオッサン連中もやたら偉そうで、高圧的で、就職出来たのは早慶レベルでもかなり厳しく、しかもホワイト系企業のホワイト枠に就職出来たのは大学名関係なく、東京の坊ちゃん嬢ちゃんのボンボン枠で、それ以外の普通の家の子は早慶レベルでもブラック企業もしくはホワイト企業のブラック枠だった。先に就職した先輩達も辞めたい辞めたいとか言ってたり、実際に辞めたりしていた。辞めない人は会社にしがみついて、30歳になるまえに力尽きて病んだり死んだりしていた。
正直、僕にとってはこんなしょーもない就職活動なんて『奴隷活動』としか思えなかったし、内定もらって喜んでるヤツをみても、
「奴隷が首輪もらってなに喜んどんねん、アホか。」
って思ってた。
偉そうなオッサンに対して、常に下手(したて)に出てるからオッサンも調子乗って足元を見続けるというシンプルな構造にハマってるだけで、しかもその組織にその立場で死ぬまでいるなんて、俺はたぶん途中で気が狂うというか、たぶん数日でドア蹴って辞めてるだろうなと直感的に思った。
百歩譲ってまだこの時から15年くらいまえのバブル期入社なら、最初の数年間にガムシャラに働いてまず実家を安定させ、次に奨学金を全額繰り上げ返済し、最後に生活防衛資金を貯めて辞める、という選択肢もあっただろう。
でも平成大不況のこの時期に残業込みで20代は手取り16万程度じゃ、いつまでたっても「親の借金」と「学費の借金」という『双子の赤字』は返せずに、ただただブラック労働で『生活』するだけの人生になると思ってた。
「俺は『生活』したいんちゃうねん!『双子の赤字』を早急に、1秒でも速く返済したいんじゃ!!」
と、ずっと思ってた。
そんなことを同年代にどれだけ説明しても理解してもらえず、僕は最終的には、
「俺はそもそも日本人と話あわへんわ。」
と思って、大学4年の後半はずっとボロ稼ぎバイトしてアジア横断旅行の資金を貯め続けていた。
寮の先輩は何人か卒業後にアジアをフラフラしてたし、僕が大学3年生のヨーロッパ旅行の時、ギリシャのユースホステルで神戸から鑑真号という船に乗って上海からずっとアジア大陸横断してきた何人かの日本人バックパッカーと話して、
「ああ、こんな長旅が人生で1度でも出来たらもう俺の人生はそれだけで十分満足で、もうそのあと即死でもいいや。」
って思ってた。
その直前にイタリアのヴェネチアで会った30代の日本人バックパッカーの、
「長旅するなら20代のうちがオススメだな。30過ぎるとだんだん体力が落ちてくる。」
という言葉も思い出した。
当時は戦争も始まりそうだったけど、極論、旅の途中で死んだって良かった。だって死んだら『双子の赤字』を返済しなくていいじゃないか。
というわけで、僕は大学卒業後は寮の先輩の紹介で西早稲田の安いアパートに入居し、さらに追加で旅の資金稼ぎをしていた。大学3年時の寮の同室だったエスタークは留年して田無のアパートに引っ越し、そこから大学に通ってたので、時々、僕の西早稲田の安アパートで一緒に日韓ワールドカップを見たりもしていた。
エスタークは留年という身分にしがみついてまで大学を卒業したかったんだろう。けど、僕は大学を卒業し、なんにも属さないことによる『自由』に、人生始まって以来の『開放感』を感じていた。まぁ良い悪い別としてそういう性格なんだろうな。
そしてもし、五体満足で生きて戦争中のアジアを横断出来て、またこの高田馬場に帰ってきたら、今度は死ぬほどガムシャラに働いて『双子の赤字』を返済しようと思った。
僕の人生の『自由』は、この『双子の赤字』を返済した先にしかないと思っていた。
僕が34歳の春に高田馬場の夜桜を見ながら考えていたこと。
それから10年後、34歳の春もまた、ここ高田馬場で夜桜を見ていた。
アジア横断の旅から帰ってきた僕は、首都圏に戻ってきて、アジアを旅しながら各地のネットカフェで書き続けていたメールマガジンの読者の家を転々と居候していた。そうこうしていると春になったので大学の後輩のアパートを引き継ぐ形でまた高田馬場に戻ってきた。
戦争中のアジアの横断、しかもネットカフェで長文のメールマガジンを書きながらの横断。そして帰国後は短期で泊まり込みのバイトをしたり、居候をしたりしながらメールマガジンの残りを書き続け、やっと後輩のアパートを引き継ぐ形で自分の家を持つことが出来、メールマガジンが完結してすぐ、僕はぶっ倒れてしまった。
長い長い旅が事実上、やっと終わったからなんだろうな。ボクサーが試合後にぶっ倒れる感じで、自分でさえ無理してることに気づいてなかった。
救急車で運ばれた先の病院で先生に、
「なんでもっと早く病院に来なかったんだ!もうちょっとで急性心筋梗塞で死ぬところだったよ!!」
と怒られた。そんなこと言っても、そんな状態を認識してなかったんだから仕方がない。
そこから1週間は病院のベッドで両腕にダブル点滴されながらひたすら眠り続けた。そして最後は無理言って退院させてもらった、これ以上はおカネが続かなかったからだ。
親にも一旦、帰ってこいと言われて、僕は実家で2か月半ほど療養生活を続けた。ちょうど実家は大学のために出て行った弟が光ファイバー(eo光)を契約して工事が終わった直後だったので、僕がプロバイダのBIGLOBEに電話してネット接続し、そこから2ヶ月半ほどは、僕はずっと始まったばかりのmixi世界に浸っていた。
その初期mixiの大規模オフ会参加のために僕は東京に戻り、東京のアパートでも光ファイバーの工事を行い、それを機に、夏の終わりからインターネット接続営業のバイトを始めた。いわゆる『パラソル舞台』ってやつだ。
そこからは一心不乱に「親の借金」と「学費の借金」という『双子の赤字』を返済し続ける人生に突入した。その先にしか僕の人生の『自由』はないと思っていたからだ。
いつも通り、誰も僕のその生き方を理解してくれる人はいなかったが、それはまぁ僕の人生においては平常運転だった。しかし、それでも理解してくれる人を探すかのように、毎晩、仕事から帰ってくると長文のmixi日記を書き続けた。そんな僕はmixiの中では少しだけ有名になり、2005年の年末に大規模オフ会も開催したけど、それでまたカネがなくなり。また借金返済活動に戻る、なんていう無茶をやったりもしていた。
2010年にグレーゾーン金利が廃止され、どうにかこうにか実家は少し落ち着き、僕が実家に仕送りし続ける必要もなくなった。なので僕は仕送り用にプールしていた予備のおカネで奨学金を全額繰り上げ返済し、これで毎月2万の奨学金の返済は無くなった。
そしてその年の暮れに同じ高田馬場の風呂のあるアパートに引っ越し、引き続き仕事をしていた。けど、翌々年の34歳の春に僕の生活防衛資金も貯まったこと、仕事のプロジェクトが一旦、終了したこと、僕自身がスキルアップのために職業訓練校に通いたかったことなどから、長く続けた仕事を一旦、辞めた。
その頃、関西で働いてたエスタークから電話があり「夏から東京で働くことになった」と言われた。なので僕は「高田馬場の不動産屋なら俺の顔が効くから高田馬場に来たら?」と言った。
当時の僕は借金返済が完了し、生活防衛資金もあったことから、おカネよりもどちらかというと『自分を軸としたコミュニティ』を欲していた。
ちょうどmixiがオワコン化し、mixiコミュニティの時代ではなくなっていたし、スマホが普及し、mixiの実名コミュニティがFacebookに、匿名コミュニティがTwitterなどに入れ替わっていた時期で、世間的にも『コミュニティの時代』とか言われはじめていた。
またブログで生計を立てる人が出始めた頃で、家を持たずにiPhoneとMacBook Airで旅をしながらブログで生活する『ノマド』と呼ばれる人たちが出現し始めていた頃だ。
その年の秋に僕は職業訓練校を卒業し、資格も取得した僕だったけど、やっぱり日本社会での『就職』には興味なく、『ノマドブロガー』のような人たちに興味を持ち、2013年の年明けからはそういうイベントに参加したり、夏に行われたブロガーサミットに参加したりもした。
おカネよりも、『コミュニティ』のほうが、当時の僕には必要だった。
僕が44歳の春に高田馬場の夜桜を見ながら考えていたこと。
その後、僕は2015年に『ミニマリスト』という言葉に出会い、ミニマリストブログを開始。はてなブログで少しだけ有名になり、twitterをベースにブログ仲間も出来た。
そしてブログ記事でその前年に泊まった広島のゲストハウスを紹介するとミニマリストに好評で、さらに僕は他のゲストハウスも紹介し始めた。さらにゲストハウス業界の人たちにも「読者をゲストハウスに送客するブロガー」として少しだけ評価された。つまり「ミニマリスト」と「ゲストハウス」の親和性が非常に高いことを発見したのだ。
2013年頃に目標にしていた『自分軸コミュニティ』は2019年頃には自分的には達成出来たと思った。
実家のほうは相変わらず赤字続きだったけど、僕が30歳前後の実家に仕送りしていた頃に学生やフリーターだった弟たちがどうにかダメ親父の経営を見直す感じでjoinしてくれて、2019年頃にはどうにかこうにか軌道に乗ってきた。
その流れで2019年5月に親が僕が30歳前後の頃に貸していたカネを返してきた。僕は絶対返ってこないと思ってたし、無理に返さなくていいとは言ったけど、返す返すとうるさいし、逆に親がカネを持っててもいつ溶かすかわかったもんじゃないから俺が持ってたほうが安全かと思った。なので結果的にはカネが返ってきた。
その頃、僕も新しい職場で働き始めた頃でおカネも入ってきてて、親が返してきたカネと合わせるとそこそこの金額だった。けど、そんな2019年6月に日本で起きたのが『老後2000万円問題』で、41歳の僕は、
「そうか、老後にそんなにおカネが必要なのか。じゃあ今の貯金と今の仕事でそこそこ貯めないとダメだな。」
と思った。
そこから2年経ち、どうにかその2019年の目標金額に到達したので、2021年に派遣切りを機会にその仕事を辞めた。他の仕事の話もあったけど、会社都合退職出来るし、当時はコロナ特例でさらに60日も失業保険が延長されたので、それを機にマネーリテラシーを上げようと思った。
まずは楽天経済圏に突入し、楽天証券でインデックス投資をつみたてNISA口座で始めた。翌年からはつみたてNISA口座に加え、特定口座でも買い増しした。さらに生活防衛資金は無リスク資産としてあおぞら銀行BANK支店に移動させて、これもこれで増やすことにした。
また長年の社畜生活で2021年春には体重も80kgオーバーという20代後半頃の体重に戻ってしまったので、今後もここ四半世紀、ずっと繰り返していた『太って痩せてのリバウンドスパイラル』を続けていたらいつ糖尿病になってもおかしくないと考え、健康本を大量に買い、家にいるときはYouTubeで健康系動画をずっと流し続け、年末にはピーク体重から−21kgの減量に成功!
ちなみにエスタークは学生時代はやせっぽちだったのに、今では僕のほうがやせキャラで、彼は『タバコか肥満かのトレードオフ』生活がずっと続いていますw常にずんぐりむっくり体型w
僕はそのダイエット成功の勢いで健康オタクみたいになり、長年通い続けた高田馬場の西友閉店もきっかけとなり、食生活を全面的に見直し『食のポートフォリオ』を策定し、調味料もほとんどオーガニックか無添加に変えた。
年明けからは『頭髪マキシマムクエスト』『腰痛ミニマムクエスト』にもチャレンジし、この春からは定期的に歯科検診に行く習慣も身につけようとしている。鼻の手術もいつかしたいと思っている。
というわけで、20年くらいかけて、
●人間関係(自分軸コミュニティ)
●おカネ(『双子の赤字』返済→生活防衛資金→インデックス投資)
●健康(特に理想体重の維持)
という人生の3本柱が確立されてきた2022年の春。
やっとこさ、ずっとやりたかった『夢』に近づいてきて、ちょっとワクワクしています!!
最近、僕はずっと『まんが道』の少年のような人生だったと思った。
そんな4月上旬、僕は家から近いのに今まで行ったことなかった、2017年にオープンした新宿区の▼『漱石山房』を訪れ、、、
「ああ、自分の『コンテンツ』を軸にコミュニティができていくってすばらしいな。」
と思いながら上記のブログを書いているとき、藤子不二雄A先生の訃報が流れ、その勢いで2020年にオープンし、前を通ったけど、まだ中に入ってなかった豊島区の▼『トキワ荘マンガミュージアム』にも行ってみた。
『トキワ荘』は手塚治虫先生と、その手塚治虫先生の漫画の掲載雑誌『漫画少年』の読者投稿欄を軸に日本中から集まってきた若者たちでできたコミュニティで、明治時代の『漱石山房』と同じく、手塚治虫先生の作品という『コンテンツ』を軸にしたコミュニティだと思った。
これは江戸時代までの日本社会の主流であった地縁・血縁コミュニティや、戦後の大学→会社コミュニティとも違う、『コンテンツ』軸のコミュニティで、「アナログなSNS世界」とも言えると思った。農耕民族の日本人社会の中で、農耕民族っぽくない人たちのクリエイティブ集団。スマホやSNSがなかった時代のアナログな『ファンベース』なコミュニティ。家庭や学校や会社という物理的なコミュニティではなく、『コンテンツ』をベースにした仮想的なコミュニティ。
そういえば最近、リアル知り合いでも、ブロガーでも、YouTuberでも、主に同年代の40代男性が、
「人生、なにをやったらいいのかわからなくなってきた。」
みたいなことを言う人が多い気がする。30歳前後の若い人でもたまにいる。
僕は逆にその気持ちがずっとわからないんですよね。「やりたいことがない」「なにをやったらいいのかわからない」という人の気持ちがずっとわからない。
で、今回、改めて藤子不二雄A先生の▼『まんが道』を改めて読んでみた。
いやぁ、「やりたいことがない」「なにをやったらいいのかわからない」という人がリアルにもスマホの中にも多いけど、僕はこの『まんが道』の世界観のほうがものすごくスッキリするし、シックリするんですよねぇ。人生に迷ってなくて、一直線で。
▼この動画が『まんが道』のざっくりとした説明としてはミニマムにまとまっていると思いました。
▲この動画にあるように、
「若き青年たちの漫画にすべての情熱をかけた青春物語」「とにかく熱い」「戦後間もなく何の保証もない漫画にかける決意」「無謀な青春群像劇がたまらなく面白い」
という世界観が、もう僕は大好きで、大好物なんですよね。
そもそも僕が20歳で東京に出てきたのは子供の頃から細々と行っていたアナログの『情報発信』を大人になってもし続けるためだった。そして大学のメディアネットワークセンターで初期のインターネットにハマったのは『自分メディア』を作りたかったから。
なので、最近は『まんが道』の中の言葉がやたら刺さる。子供の頃から『まんが道』の存在は知ってたけど、そして20代30代でちょくちょく読んではいたけど、なんとなく「まだこの時期ではない」って思っていた。『人間関係』『おカネ』『健康』という、「三本柱」がそろった今こそ、この『マンガ道』を読む時なのかもしれない。
同年代の「やりたいことがない」「なにをやったらいいのかわからない」と言う人とは真逆で、僕はもう「やりたいこと」で満ち溢れているんですよね。しかも、今の時代、Kindle出版もあるし、YouTubeもあるし、有料noteもあるし、Voicyもあるし、twitter有料スペースもあるじゃないか。
まずは夏までにこのブログのマネタイズだな!!そして夏からは社会復帰し、その後、このブログを軸にしていろんなメディアにも挑戦してみたい!!
結局、僕は子供の頃からずっと『まんが道』の少年みたいに、果てしなく「情報発信」し続けるのが生きる『目的』みたいなモノで、おカネとか、健康維持とか、自分軸のコミュニティとかは全部、その「情報発信」のための『手段』だと思っている。
もし「情報発信」ができなかったら、そもそも生きる意味自体を喪失して『まんが道』の「テラさん」みたいになっちゃうと思う。A先生いわく「緩慢な自殺」みたいな状態になってしまうと思う。
僕は今のところ、子供の頃から毎年、前進し続けていると思っている。他の人からは「遅い」とか「前進していない」とか「稼いでない」とか言われたりするけど、まぁ僕自身が僕自身の日々の「前進」を認めているから特に問題ない。だってそもそもスクールカースト最底辺からの人生出発だし、「誰もわかってくれない」のはいつものことだ。
そして、僕自身が僕自身の「前進」を認められなくなった日に、僕の人生は終わるんだろうな。