ここ最近、ポジティブ記事を書きだしてからAmazonでよく見かけるようになった『ポジティブの教科書』という本を買ってみました。
ポジティブの教科書―自分も周りの人も幸運体質になる3つの基本と11の法則
- 作者: 武田双雲
- 出版社/メーカー: 主婦の友社
- 発売日: 2013/11/29
- メディア: 新書
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いやー、この本、めちゃくちゃ大事なことが書いてあって「是非これはブログで紹介したい!!」と思いました。
けど、「まてよ、」と。
「こんなポジティブな本紹介とかポジティブ記事とかばかり書いていたら変な宗教やってるとかネットワークビジネスやってるとか思われないかな。。。」
という一抹の不安が出てきました。。。
で、よーーーーく考えました。
「それはすごく20世紀的な考え方なんじゃないか?」と。
人間はやっぱり基本的に「ポジティブ」を求める生き物なんじゃないかと思うんですよね。
太陽がないと生きていけないように。晴れた日に公園を散歩したら気持ちいいのと同じように。
日本においては20世紀前半は『大日本帝国』という「国」自体がある意味「ポジティブ」を日本人に提供していたんじゃないかと思うんですよ。
でも1945年の敗戦から、いっきに日本はネガティブに。そして占領下の日本で「国」自体は国民に「ポジティブ」を提供できなくなった。
元々、キリスト教やイスラム教のような一神教の国ではないので、戦後、日本国民は「国」に変わる「ポジティブ」供給機関に飢えていたんじゃないかな。
その後、高度経済成長と共に20世紀後半は「会社」とか「新興宗教」とか「学生運動」とか「テレビ」とかが日本人に「ポジティブ」を供給する役割を果たしたんじゃないかな?いいか悪いかは別として。
日本の会社独特の「社訓読み上げ」とか「運動会」とかはこの時期にはおそらく社員からも「ポジティブ」ニーズがあったのだろう。
「新興宗教」とか「テレビ」の中の人にバンバンお布施していたのも、ある意味「ポジティブ」との等価交換だったのかもしれない。
でもその体制も20世紀の最後の90年代にガラガラと音を立てて崩れ落ちたんじゃないかな?
バブルは弾け、リストラが始まった。「会社」はもう「ポジティブ」を提供できなくなった。
地下鉄サリン事件等で「新興宗教」も実は「ポジティブ」供給機関ではなかったことが明らかになってしまった。
学生運動のアジトだった東大駒場寮は閉鎖され、早大旧学生会館は建て直された。
2000年に森首相()が唱えた『IT革命』()から徐々に脚光を浴びてきたホリエモンもよくわからない罪で投獄されてしまった。
パソコンの中では2ちゃん住人がネガティブ発言を評価するような文化が出来上がっていた。
「テレビ」に関しては「会社」や「新興宗教」よりももう少し長く「ポジティブ」を供給していたけど、それも00年代(2000年~2009年)までだったのかもしれない。
その頃「隠し番組」(ラジオやってること誰にも言うなよ)をコンセプトに松本人志と放送作家の高須光聖が深夜に放送していたラジオ番組「放送室」では、
「テレビはもうあかん。」
という言葉が頻繁に出てくる。しかも番組後半になればなるほどよく出てくる。
2011年の地デジ化や東日本大震災を機会にテレビを捨てた若者も多い。
その年の秋にスティーブ・ジョブズの死と同時にスマホが爆発的に普及した。
2013年には『第二次ブログブーム』と称して『ブロガーサミット』が開かれた。
『はてなブログ』なるものも始まった。『ノマド』なる言葉も生まれた。
思った。
「2010年代以降に日本人に『ポジティブ』を供給するのはもしかしたら一個人、一国民、一日本人なんじゃないかな?」
そこには国歌や校歌や社歌の強要もないし、運動会等のイベント強制参加もない。よくわからない社内制度や理不尽な上下関係もない。
お布施も登録料も月額料も必要ないし、町内会費も必要ない。受信料も必要ない。
ノイジーな企業CMも暗いニュースも見なくていい。特定の政党に投票する必要もない。
名前も顔も知らない人だけど、
ただ『ポジティブ』だからフォローする。
ただ『ポジティブ』だから読者登録する。
ただ『ポジティブ』だからfeedlyアプリに登録する。
もしその人がなにか困っていたら知ってる事なら教えてあげるし、おすすめする商品ならその人のアフィリから買う。
そしてお金に困ってたらそっと送ってあげる。
大黒摩季のCDを買って「ポジティブ」になれても、大黒摩季にはそのCDの印税10%しか入らないけど、『ポジティブな個人』になら100%その人のお金になるし、しかもすごく喜んでくれる。
そして明日からの文章がさらに「ポジティブ」になる。
これは十分に「等価交換」が成立している。
僕はこれからはそんな時代になる、いやすでになってる気がする。