このブログはどうやら「ライフハック系ブログ」に分類されているらしい。
でも、人間、いつもいつもライフハックなことばかり考えてたら疲れる。
特に日曜日のこんな時間、ウォーキングも半身浴も終わったし、自分の書きたいことだけを書いてみようと思う。
最初に断っておきますが、ただ書きたいことを書いてるだけなので誰の役にもなんの役にも立ちません。
資格の攻略法もミニマリズムも出てきません。ただのひとりごとです。
去年の年末に九州に行ってきた。
人生3度目の九州。
目的は『家系図』を見ること。
僕は関西で産まれたのだが『本家』は九州の田舎にある。『本家』なんて変な表現だ。
僕自身も最近、理解してきたことなのだが、どうやら僕の一族は「家系図」の一族らしい。
「家系図」がある一族、ではなく、「家系図」の一族。
けど、子供の頃からつい最近まで、僕はその「家系図」に全く興味がなかった。
関西のじいちゃんの家にある家系図は中学一年生の時に一度だけ見た。立派な桐の箱に入ったものすごく長い巻き物だった。
それを全部、大学ノートに写して夏休みの宿題にして提出した。
社会の先生はものすごく感心していたが、僕にとっては家系図をノートに写すだけの簡単なお仕事であり、コスパのいい夏休みの宿題だった。
だからそこに書いてあった内容なんて全く覚えていなかった。
大学受験の時も日本史選択だったが、家系図には特に興味を持たなかった。
33歳の時、実家の学習机を処分した。引き出しの奥からその大学ノートが出てきた。
いい大人になっていたが、その時もさほど「家系図」には興味が沸かなかった。が、とりあえず大学ノートは捨てずに置いておいた。
次の年、ばあちゃんの米寿の祝いがあるということで実家に帰った時にそのノートを開いてみた。
前年までは東京で生きていくのにいっぱいいっぱいだったが、その時は余裕も少しできてきていて、個人的に歴史にハマっていたので、やっと初めて「家系図」に興味が沸いた。
ところで「家系図」なんて「うそ・おおげさ・まぎらわしい」の産物だ。江戸時代初期と明治時代初期に大量に偽物が量産された。おそらく人々は社会がガラッと変わる変革期のどさくさまぎれに自分の家の格を少しでも上げようとしたのだろう。
僕は日本史選択者だったのでそういう事実は学生時代から知っていたのだが、しかしその前提でうちの「家系図」に興味が沸いた。
うちは「家系図」の記載とそれを説明した縁起(説明文)によると、豊後・大友氏の支流で、鎌倉時代に東北から大友氏を頼って九州に来たらしい。
それから時代が下って、戦国時代、豊後・大友氏は関ヶ原の戦いの時に西軍についてしまっていて、別府で東軍の黒田官兵衛の軍に滅ぼされる(石垣原の戦い)。
その時、西軍の大友氏の支流だったうちの先祖は歴史の妙で、なぜか東軍についていた。
なので大友氏滅亡後もうちは滅びずに東軍の武士として江戸時代を迎えた。
江戸時代になってすぐにうちの先祖はなぜか神社の宮司になった。
僕の予想では、関ヶ原で東軍とはいえ、大友氏の支流という立場は当時の九州では微妙だったのではないか、と思う。
なので同じ大友氏支流の神職の一族から神社を分けてもらってその神職になることで武士と宮司の中間みたいな立場でどうにか江戸時代を切り抜けたんじゃないかな。
今も神社はあるが神社自体はぜんぜん大したことのない規模だ。
さらに時代が下り、明治になって、今度は「武士」という身分自体がなくなった。
そうなるとうちの一族に残ったものはもう奥州藤原氏時代から続いている「家系図」と神社の周りにある一族の物理的な「家」しかない。
そこでうちの一族は当時の有力な20家が集まり、「家系図」を守るべく、20年周期でひとつの家が1年間、神社の「家系図」を守り抜き、それを毎年、年末に引き継ぐ儀式である「系図講」という儀式を始める。明治21年のことだ。
20家にはそれぞれ自分の家に小さい家系図があるのだが、神社の「家系図」は大きな箱に入っている。
それをその年の担当の家(「宿」と呼ばれる)がその年に結婚したり子供が生まれた20家の情報等をアップデートする仕組みだ。
20家は神社の周りに集住していて、どれも江戸時代から続く大きな家だ。
しかし昭和になり、その中で1家だけ落ちぶれた。僕の家だ。
僕のひいじいちゃんは先祖代々続いてきた大きな家を失い、妻も失った。
そして「家系図」だけを持って、まだ子供だったじいちゃんを連れて、どうやら僕のひいひいばあちゃんの実家を頼り、そこで別の女性と再婚したらしい。
が、生活は貧窮を極めたらしい。
元々は武士の家柄なのだが、新しい妻と川で「船渡し」のような仕事をしてどうにか糊口を凌いでいたらしい。
その頃に20年周期の「系図講」の「宿」が一度周ってきているはずなのだが、どこで開催したのかは今となってはわからない。
しかしさらに災難が襲う。
その仕事の途中に新しい妻が船から落ちて溺死してしまったのだ。
長男だった僕のじいちゃんはそのひいじいちゃんとその後、さらに再婚した妻から生まれた歳の離れた腹違いの弟や妹達を養うために関西に出て警察官になった。
当時は警察になれば自分だけではなく、地元の親にもお金が入る制度だったらしい。兵隊にとられる可能性も低い。
おそらくそれが当時のじいちゃんにできる、落ちぶれた「家」を守るための当時の唯一の選択肢だったのではないかと思う。
20家の長男が九州を出て関西に出稼ぎに行くなんておそらく明治以来、いや、関ヶ原以来、はじめての出来事だっただろう。
じいちゃんはその後ずっと、何年も関西から九州にお金と物資を送り続けた。
その後、神戸で警察官として終戦を迎えたじいちゃんは、九州に帰ってきてひいじいちゃんにこう言った。
「家系図を貸してくれ、関西で結婚したい人ができた。」
と。
長くなったので、続きはいつか書きます。