探していた。
30代後半の僕は、自分が心から自然体になれる町とゲストハウスを。
僕の実家は姫路で、本家は宮崎だ。
そして、日本は西に行けば行くほど、ゲストハウスは増えていく。
しかも宿泊料金は安くなる。
なので、まず九州に飛んだ。
鹿児島から入って、宮崎、大分、福岡、広島、そして姫路、と回った。
旅自体は非常に楽しかった。
しかし、意に反して、自分の居場所は見つからなかった。
「なんでかな〜。」
と、考えたら、答えは非常に簡単で、
僕は結局、『家族』が好きじゃないのだ。
なので、いくら故郷や、先祖が代々住んだ土地に行っても、旅行としては面白くても、なんとなく落ち着かない。
東京からも遠すぎる。
実家が嫌いで東京に出て、東京、特に新宿区が気に入って14年くらい住んでいる。
なんだかんだ言っても、東京は楽しいし、逆に、西に行けば行くほど黒歴史だ。
じゃあ関東にめぼしい場所があるか?というと、関東平野は仕事で結構、行き尽くしてたりする。
行ったことがなくても、仕事中に聞いたことのある地名ばかりだ。
関東平野の地名は、僕にとっては仕事の中に出てくるものばかりだった。
で、去年の夏、ミニマリスト佐々木さんに勧められた『小屋フェス』を見に、長野に行った時、せっかくだから長野のゲストハウスにも一泊しようと思って、下諏訪のマスヤゲストハウスに泊まった。
「ここなんじゃないかな!?」
と、いきなり思った。
適度に関東から近く、適度に関東から遠い。
しかも僕の住む新宿区から電車もバスも直結してる。
別府のように温泉がいたるところにあり、しかも別府より設備がいい。
そして、なによりもゲストハウス自体がサイコーで、さらに町全体が、そのゲストハウス中心に成り立ってるような作りだ。
これは面白い!!
その後、1年で7回も下諏訪のマスヤゲストハウスに行った。
「通った」と言ったほうが近いかも知れない。
ミニマリスト仲間を連れて行ったら、僕の下諏訪ハマり具合に呆れるくらいの人もいた。
で、最近、ふと思ったのは、
僕は結局、『田無寮』を探してたんじゃないかな?
ということだ。
『田無寮』とは、僕が大学4年間、生活していた学生寮だ。
奇人変人が多いと言われるうちの大学の中で、最も奇人変人が集まっている場所だw
廃人ばかりで、一日中ゲームしてたり、麻雀してたり、
「授業に出るなんてとんでもない!?」
みたいな雰囲気が蔓延していたダメな寮だった。
僕はそんな寮でグダグダしてる寮生達がいつもキライだった。
東京に憧れて、憧れて、憧れて、借金(奨学金)して姫路から出てきた僕にとっては、東京は、
『夢を叶えてくれる街』
であって、朝から晩まで寮を出払っていた時もあった。
有名な人に会ったり、イベントを開催したり、インターネットのオフ会に行ったり、有名な会社でバイトしたり。
そして、貯めたバイト代で、夏休みはアメリカやヨーロッパを旅した。
今思えば、あの頃の僕は、
「やりたいことの塊」
だったんじゃないかと、思う。
あの頃の僕は、基本的に田無ではなく、東京23区内にいた時間のほうが長かった気がする。
ただ、時々、疲れて寮に帰ってきて、グダグダしてる寮生とくだらない話をしたりした。
あまり寮にいない僕にも、寮生は笑顔でかまってくれた。
まぁ、それだけ暇人だった、ということなんだろうけど、
それでも、今思えば、ありがたいことだった。
そして、田無寮でグダグダして、英気を養ったら、また東京23区や海外に出て行く。
僕にとっては田無寮こそが『ホーム』であって、もしかしたら『故郷』に近かったのかも知れない。
当時は田無は西東京市ではなく、「田無市」という、日本で4番目に面積の狭いミニマムな市で、たぶん、僕の姫路の小学校の校区より狭かったと思う。
その田無市の中でも田無寮は有名だった。寮祭とかもしてたし。
でも、そんな田無寮は当然、大学の設備なので、僕も4年で追い出された。
暗い話だけど、寮生のうち、少なくとも3人は20代のうちに自殺した人間を知っている。先輩や後半を含めて。
おそらく、彼らにとって、
田無寮とは、行きていくための『酸素ボンベ』みたいな役割を果たしていたんじゃないかな?
と、今になって思う。
田無寮以外の場所はとかく息苦しい。
なので、彼らは、田無寮で『酸素』を補給しないと、行きていけない人間達だったんじゃないかな?
しかし、学生寮は当然、4年で追い出される。
彼らは田無寮を卒寮したら、『酸素ボンベ』無しの生活になった。
彼らにとって、それは「遅かれ早かれ『死ぬこと』がわかっている生活」だったんじゃないかな?
後輩なんて、卒寮したその春に自殺した。
かくいう僕も、
寮生である限り、結局、彼らとは同類だったんじゃないかな?
と最近、よく思う。
依存頻度の問題なだけであって。
で、田無寮が設備的な理由で完全に廃寮してしまった2007年くらいから、日本にもポツポツとゲストハウスが増えてきた。
もうその3人は死んでしまってたけど、
もし彼らが生きてたら、日本のゲストハウスを見せてやりたかった。
とも思った。
で、田無寮は、
「都の西北、そのまた西北」
と言われたりもしたが、
僕が気に入ったゲストハウスはそのさらに遥か西北にあった。
新宿区から見て、田無寮と同じ方角にある、田無寮のように、いつ帰っても話してくれる人達がいるドミトリー。
38歳の僕も、普段は23区内で頑張ってるけど、やっぱり少し疲れてしまったら、今でも田無寮に帰って、英気を養って、また戦場に戻りたい。
僕が欲しかったのは、田無寮と同じくらい、酸素が濃厚で、時間がゆっくり流れる穏やかな居住空間だったんだろうな。と、最近、思った。
昔はおカネがなかったから、しぶしぶ『田無寮』に入ったのだけど、
今はおカネを払って、『田無寮』のようなところに癒されに通っている。
僕は、そんな、ただのアラフォーのおっさんだ。