いろいろ悟ってますね、カミュさん。
しかしこの言葉、非常に考えさせられます。
「生きる」のに、果たして「理由」がいるんだろうか?
今時点での僕の意見を言うと、
やっぱり人間が「生きる」のには「理由」が必要なんじゃないかと思います。
じゃないと、生命を維持するだけの人生なんてコスパ悪いんじゃないかと思います。
逆に言うと、自ら「死」を選んだ人達は、みんな生きる「理由」を失ったんじゃないかと思います。
人間と他の生き物との最大の違いは、人間はこの「生きる理由」が必要なことなんじゃないかと思います。
ま、自然界ではかなりやっかいな生き物ですね。
完全に生物進化の袋小路に入ってしまってると思います(笑)
僕は人間とパソコンは非常によく似ていると思ってて、パソコンを購入するのにも大なり小なり「理由」が必要になると思います。
ブログを書きたいとか、ネットゲームをしたいとか、なんでもいいからパソコンを購入する「理由」がないと単なる無駄使いにしかならない。
人間も「生きる」ことになんらかの「理由」がないと人生の無駄使いにしかならないし、そんな人生なら早期にリセットしてしまおうと考えるのが人間という生物なんじゃないかな、と思います。
そして、人類の歴史は「生きる理由」を求め続けてきた歴史だったんじゃないかな?とも思う。
それが、宗教であったり、王朝であったり、国民国家であったり、国軍であったり、企業であったりしたのかもしれない。
逆に言うと、20世紀まではなんとなーく、生きている「理由」がデフォルトで設定されてた。
ほとんどの人類はなにも考えなくてもデフォルト設定された「理由」に向けて生きていけば問題なかった。
でも21世紀になり、飢えることもなくなり、戦争する必要もなくなり、なんと!必死に働く必要さえなくなりつつある。
そういう時代に自分自身で生きる「理由」を見つけられない人は辛い人生になるのかもしれない。
パソコン買ってもなにをしたらいいのかわからないほど辛いものはない。
だから、ほんのちょっとしたことでもいいし、他人がどう思おうが構わない「理由」を見つけて、それに向けて生きていけばいいんじゃないかな?
「ブログを毎日書き続ける」
とか、
「日本中のゲストハウスに泊まる」
とかでもぜんぜんいいと思う。
くだらなくてOK!w
他人にどれだけ「くだらない」って言われようが、そんなことは無視して、ブログやTwitterやFacebookで「好き」を言い続ければ、徐々に理解者は増えてくると思う。
そういう親和性の高い少数の理解者だけと生きていくのが、この時代の人類が生きる「理由」だと思う。
人類がこの4000年ほどやってきた『文明』の構築自体が、他の自然界の先輩である動物・植物からしてみれば、「くだらないこと」であり、「なにをやっとるねん」ってことだと僕は思う。
だから人間は今まで通り、「くだらない」ことを、おもいっきり、必死にやればいいと僕は思う。
で、生きる「理由」もなしに『バズってどうする!?』