学ぶことの大切さを説いていますね!武田信玄さん!!
さすが、躑躅ヶ崎館に、水洗トイレを設置し、
『山』
と言う名称で呼んでいて、家臣が、
「何故、厠を山と言うのでしょう?」
と尋ねたところ、
「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」
と答えただけのことはある!!
こ、こんな奴に俺が好きな諏訪地方が制圧されたのか。。。
あと、
▼『信玄餅』って、食べにくくね???
(きな粉がいつも飛び散るんだよ!!w)
というわけで、タイトルの言葉。
人は『学』がなければ木に子葉がないようなものだ。
これ、なんかちょっとインテリぶってるような言葉ですが、実はこれには続きがあります!
『学』とは物を読むばかりにあらず。
おのれおのれが『道』につきて学ぶを『学』というなり。
いや、いい言葉だと思いました!
『学』は、
いわゆる学校の『勉強』とは違う!
と信玄は言ってるんだと思います。
個々人が、己の『道』を見出し、それについて邁進すること全体を、信玄は『学』と呼んだんじゃないかな?
今のこの時代でも、周りを見渡せば、子供の頃、学校の『勉強』が苦手でも、大人になってから、着々と自分の専門分野で『学』を身に付けている人はいっぱいいます。
逆に、
『十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人』
と▼言われるように、、、
十で神童十五で才子二十過ぎればただの人 - 故事ことわざ辞典
子供の頃、学校の『勉強』が非常にできても、大学入ってからはずっと寮で麻雀漬け、あるいはゲーム漬けの人もかなり多いです。
で、まぁそこそこの大学に入ってれば、そこそこの企業から内定をもらえて、卒業後も「大企業の正社員」という身分に胡坐を書いて、なにも学ぼうとせず、ひたすら社内政治だけが上手くなってるだけで、なんのスキルもない、事実上の『無職』の人も、この国には多いです。
けど、『関ヶ原体制』が根強く残るこの国では、「大企業の正社員」というだけの、なんのスキルも実績もない人間が「頭の良い人」とされ、逆に、常に現場でスキルや実績を着々とつけてきた人が「頭の悪い人」とされています。
一番、『学』んでいるのは後者なのに。
が、関ヶ原から400年近く経って、IT革命、特にモバイルメインの第二次IT革命が起こってからは、
「威張ってばかりの『大企業の正社員』なんて、大人になってから、なにも『学』んでねーじゃねーか!」
ということがバレ始めて来ている。特にアジアからの留学生とかに。
逆に、専門分野で『学』び続けてきた人が、ブログ等を通じて今まで蓄積してきた『学び』をアウトプットすることで、その業界内の人に留まらず、広く世界中から支持されるようにもなってきました。
今の時代ほど、
どれだけ自分の『道』に、コツコツと『子葉』をつけて来たか?
が正確に評価される時代は日本史上なかったんじゃないか?
って思います。
僕的には、安易に「大企業の正社員」を目指して、何十年も『子葉』をつけずに「関ヶ原体制」のバブル崩壊を待つよりも、自分が信じる『道』を見つけ、その『道』に対して、自分の『才能』を発揮し、日々『学』び続けて、実際的な『子葉』をコツコツと増やしていき、最終的に『A1能力』が発動できるまで昇華することが、▼この時代には一番大事な気がします!
『好き(A1)』×『才能(能力)』=『A1能力』発動!!! - A1理論はミニマリスト
だって、
『好き』こそが、『学』という『子葉』をつける源泉であり、『好き』じゃないと何も『学』ぼうとしませんから!
人間って!!
って、こんな、ウェブ上に雑文をまき散らすことが『好き』で、20年弱も雑文を書き散らしてる割には、たいして儲かってないやつの記事が『バズってどうする!?』