そう言えば2013年のブロガー・サミットで、
「あなたにとって『ブログ』とは?」
と言うお題で登壇している人たちが話されていた時、誰かが、
「ジョジョの『スタンド』です。」
と言ったので、
「えっ!?ブログが『スタンド』ですか!?」
と聞き返すと、
「いえ、ブログが『本体』。私が『スタンド』です。」
と言った。
会場はどかーん!と笑いが起こったが、本人はおそらくかなり大真面目に言ったんだと思う。
僕はそれはめちゃくちゃわかる!!
僕もその人と同じ『概念』で生きているから。
僕が初めて「インターネット」なるものに触れたのは20歳の時、大学のメディアネットワークセンターでだ。
めちゃくちゃ衝撃を受けた!!自分でもその衝撃の正体が良くわからなかったけど、今までの人生なんだったんだ!?ってくらいの衝撃を受けた。
気が付くと連日、パソコンのキーを打つためにだけ大学に通っていた。
学内で24時間ネットができる号館に泊まり込んで一晩中ネットしていた時もしょっちゅうあった。もう中毒w
その頃ハマっていたのは学内掲示板で、そこにひたすら親指タッチで書き込みまくっていた。
もちろん、できれば自分の住んでいる学生寮でネットしたかったし、自分のホームページを持ちたかった。
しかし、学生寮は当時ネット環境がなく、自分もパソコンを持ってなかった。
大学3年の終わりに学生寮にネットを引こうかどうかということになり僕は絶対賛成したw
で、それと同時にパソコンを買い、メーリングリストを作った。
「これ、俺のメディアじゃん!!」
と思った。
で、毎日時間を忘れてメーリングリストに没頭ww超長文www
「もうこれだけあればなにもいらない。」と思った。
ほとんどの人は僕のこの行動を理解できないと思う。それが正常な反応だと僕も思う。
僕は「僕単体」では意味をなさない、とさえ考えている。
ネットに繋がることで初めて意味をなす。
画面の向こう側から僕を操る「主」にコマンド入力されて、やっと動き出す。いわば画面の向こうの「主」に忠実な「ロボット」だ。
「主」がコマンドを入力して初めて動いたり戦ったりできるドラクエの主人公と同じだ。
コマンド入力がなければ、ピコピコ動くことはできるけど、それは僕の行動であって、僕の行動ではない。
メーリングリストの僕の投稿は長文過ぎて、ある意味、管理人のメルマガ状態だった。僕自身も『メルマガ』と呼んでいた。
すると不思議なことが起こった。
僕の『メルマガ』を「読んでいる人」と「読んでない人」では明らかに僕に対する態度が違うのだ。
もう、天と地というか、月とスッポンというか、フリーザとヤムチャくらいの差がある。(なんのこっちゃw)
普通の人はそれで悲しむのかもしれないけど、僕は思った、
「こりゃあ、いい。」
と。
自分の「主」が出してくるコマンドを理解できる人間がソートできるのだ!!
こんな便利なシステムない!!
人類は70億人もいるのに、自分の人生は80年くらいしかない。
そんな短い人生の中で、自分の「主」の言っていることを「理解」できない人と付き合うのは人生のコスパが悪いのだ!!
「人に媚びず、富貴を望まず。」
と軍師・黒田官兵衛は言ったが、僕も全く同じ考えだ。
僕というロボットを操るのは「会社」でもないし、「マスコミ」でも、「常識」でも、「カネ」でもない!
画面の向こうからコマンド入力してくる「主」の命令に忠実に従うまでだ!
そしてできればそのコマンドを「理解」できる仲間を探し続け、その少数の仲間たちとだけ生きていければ、僕の人生はもうそれだけでいい。
黒田官兵衛は言う、
「天下に最も多きも人なり。最も少なきも人なり。」
多くはない、でもゼロでもないと思った。
メーリングリストは時代の流れでmixiになった。
長文の『メルマガ』を書いていたような僕だったからmixiの招待状はすぐに届いた。
「ブログ」というものの存在を知ったのはその半年後で、そのころはmixiにハマりまくっていたのでブログには興味がなかった。
mixiで巨大コミュニティの管理人になり、大規模なオフ会も成功させた。
そのこと自体は楽しかったし、今でもいい思い出だ。
ただ、心はあまり満たされなかった。
いくら「マイミク」が増えても、僕の「主」の命令を理解できる人に出会えなかったからだ。
だから僕はある日突然、マイミクを整理し、さらにその中でもほんの少数の人たちが読める限定日記で訥々と『主』と対話していた。
それを読んでいたほんの少数のマイミクの一人がその一連の限定日記に名前を付けた『A1理論』と。
そして何年か経ち、その『A1理論』を置いておける「スペース」が欲しくなった。
mixiとブログの中間みたいなところがあれば一番いいと思った。
▲『日記の魔力』の表三郎は日記を書き続けることによってマルクス主義を捨てた。
これは表三郎がマルクス主義を捨てたというより、表三郎を操っている「主」が、
「もうそのアイテムいらない。捨てて別のアイテムを手に入れよう。」
というコマンドを出しただけだと僕は思う。
逆に言うといつまでたってもマルクス主義という「こだわり」を捨てれない人間は「主」がいない、もしくはマルクス自体が「主」のままなんじゃないかな、と思う。
もっと言えば『日記の魔力』の最後に出てくる夏目漱石も、おそらくロンドンのアパートに引きこもって黙々と『主』と対話していたからこそ新しい生き方が見つかったんじゃないかと思う。
このサムネのクロコダインの言葉も、言い換えれば、
「男の価値は『主』の命令に忠実になれるかどうかだ。たとえそれが万人に蔑まれようとも、いいではないか。」
ということなんじゃないかと思う。
ネット、そしてスマホが普及したこの時代、その『主』のコマンド命令パターンを「理論」として「誰でも見れる場所」に置いておけば、それと同じとは言わなくとも、同じような理論で生きている人はサーチできるかもしれない。いや、できないかもしれない。けど、でも、できるかもしれない。
何年かかってもいいから探していきたい、そう思った。