世のなかの本質を突いてますね!デモクリトスさん!
さすが、プラトンに手に入る限りのデモクリトスの書物を焼かれ、
「彼の著書で多くの言葉を費やす者は、いかなる正しいことをも学ぶ能力がない」
と言われただけのことはある!w
いやいやプラトンさん、▼ニートこそが『イデア』なあんたに言われたくないww
時間を空費するのは、贅沢の絶頂である。(プラトン) - A1理論はミニマリスト
「ウホッ!」にプラトニック・ラブだしw
で、今回のタイトルの言葉ですが、、、
教育は幸運なる人々には『飾り』となり、不幸なる人には『避難所』となる。
20世紀までの人類の『教育』の歴史って、
『不幸なる人』(貧乏人)が、苦学して、蛍雪の功で築きあげた知識体系を、『幸福なる人』(ボンボン)がブランド化して身にまとう
ってことの繰り返しだったんだろうなぁ。
(そのアンチテーゼとして『ストア派』とかも生まれたのかもしれない)
貧しい家の「フェニックスマン」も『知性の神』と融合することで、「キン肉マン・スーパーフェニックス」になったんですよ!
(なんのこっちゃwチートやしw)
まぁ、古代ギリシャとかは『学校』とか『アゴラ』にこそ、『知識』がまとまって置いてあったんだろうな。
そこに行かないとレアポケモンである『教育』はゲットできない。
そこに行く方法は、苦労して這い上がって行くか、カネで解決ぶぁいやいやい!でショートカット、かのどちらかだったんだろう。
この風習は20世紀くらいまでずっと続いたんだろうな。
なぜなら、結局、『知識』体系が、全て紙と活版印刷術にまとまってたから。
だから、そこに行くこと自体がステータスになった。
ま、日本語でミニマムに言うと『学歴』ってことなんだろうな。
田舎にいたんじゃあ、いつまでたっても、テレビとゲームとパチンコ雑誌と車雑誌の世界だ。
僕が98年に姫路から東京・高田馬場に出てきた時、瞬時に、
「ここに住みたい!!」
って思ったのは、
そこには『本』が溢れてたからだ。
でも、21世紀初頭の第1次IT革命、第2次IT革命によって、
『教育』
『知識』
そのものもパケット化し、場所も時間も選ばなくなりつつあるんじゃないかな?
もっと言うと、
『アウトプット』
に関してもそうだ。
人間の脳のストレージ容量には限界がある。
だから、僕は脳のストレージ容量を一定以上確保するため、つまり『忘れる』ためにブログを書いている、と言ってもいい。
だから、ブログ仲間や、読者に、
「まえにブログで●●って書いてたじゃん!」
って言われても、
「そうだっけ??」
って、よく自分の書いたことを忘れてる(笑)
なので、
皆さん、僕がブログに書いたことを忘れてるのを責めないで下さい!(笑)
これからも、僕が敬愛するゆでたまご先生や荒木飛呂彦先生を見習って、
以前、自分で書いたことをどんどん忘れていこうと思ってます!(笑)
(『ゆで理論』と読んでくれ!w)
と、まぁ、そんなことはどーでもいーとして(どーでもいーんかい!w)、『教育』の量がすべて収まった古代ギリシャの時代ならともかく、
この時代、『教育』も『知識』も『情報』も、ビッグデータ過ぎる。
人類が築いてきた知識の全てのことを知ることはもう不可能だし、むしろ、記憶しようとしちゃダメだ。
なぜなら、やはり、脳のストレージ容量には『リミット』があるからだ。
この時代、脳は常に『空っぽ』なくらいでちょうどいい。
そのほうが、CPUのクロック数という脳の『パフォーマンス』をマキシマムに発揮できるからだ。
臨機応変にスマホからその時使う知識だけを取り出して、使用後は常時『キャッシュクリア』で知識も断捨離!
(『モバイルボヘミアン』だろ~)
「頭、空っぽのほうが『夢』詰め込める!」
って、昔の人も言ってたじゃないか!
(90年くらいに)
というわけで、
この時代、知識なんて『飾り』になんてならない!
『飾り』じゃないのよ、知識は!ハッハー!
むしろ、
全ての人にとって、知識は『避難所』になるんじゃないかな?
自分の人生における『避難所』。
特にブログの記事とかは、絶好の『避難所』だと思う。
自分がこの先、困った時は、自分のブログ記事を検索して、『避難所』に戻ってくればいいんだから。
その、自分のために作った『避難所』が、万が一、他の困ってる誰か「不幸なる人」の『避難所』にもなれば、、、
もしかしたら、その人の人生を少し救えるかもしれない。
そうやって、拙者はこの『21世紀』を生きているでござるよ。
って、朝っぱらから酔っ払って、こんなハイテンションなジャンプネタマキシマムな記事を書いて、誰のなんの『避難所』にもなってないこんな記事が『バズってどうする!?』