日本人のダメなところをズバリ突いていますね!ベルツさん!
さすが、第日本帝国憲法の制定時に、一般民衆の様子を、
「お祭り騒ぎだが、誰も憲法の内容を知らない」
と、日記に書いただけのことはある!w
しかし、▼「はてなダイアリー」チックなタイトルですなぁw
- 作者: エルウィン・ベルツ,トクベルツ,Erwin B¨alz,菅沼竜太郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/02/16
- メディア: 文庫
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なんか、『ベルツ』っていうハンドルネームのキモいおっさんのブログのようにも思えてきましたw
で、タイトルの言葉ですが、、、
日本では今の科学の「成果」のみを受け取ろうとし、この成果をもたらした精神を学ぼうとしない。
さすが、日本をdisり続けた、ベルツさんやでぇ!!
(けど、草津温泉はベタ褒め!w)
西洋の猿真似ばかりし続けた明治日本!
「結局、枝葉末節の部分を表面的に真似しただけだ。」
と、ベルツさんは言いたいんだろうねぇ。
で、結局、
明治から戦前までは、ヨーロッパの猿真似。
戦後はひたすら、アメリカの猿真似だったんじゃないかな?
日本は。
ここ70年ほど、
「アメリカに追いつけ、追い越せ!」
的な。
なので、
成果、成果、成果の『成果主義』
で、ここ150年ほど、日本はずっとやってきたんだろうなぁ。
明治時代から「富国強兵」「殖産興業」のプロトコルが今の日本でもずっと残ってるような気がする。
二宮金次郎、万歳!!
みたいな。
でも、日本社会での『成果』って、結局、
『数字』に変換する成果
なんだろうな、と思う。
大学の偏差値から、
入社した企業の株価から、
営業成績から、
テレビの視聴率から、
音楽の価値から、
ブログの価値から、
モノの価値まで、
数字、数字、数字、数字!!
的な。
このノリが長らく続くと、
そのうち、人間そのものも、スカウターで計るように『数字』でしか見なくなってくる。
偏差値〇〇の大学の学部を卒業した人、とか。
年収〇〇〇〇万円稼いでる人、とか。
営業成績が全国〇〇位の人、とか。
視聴率〇〇%の人気番組、とか。
〇〇万部売れたCD、とか、
ブログが月〇〇万PVのブロガー、とか。
〇万円のジャケットを着てる人、とか。
で、すべて、
『数字』
が取れないと、落ち込む。
偏差値〇〇以上の大学に行けなかった、とか。
年収〇〇〇〇万円の奴に負けてる、とか。
営業成績が〇〇位しか行けなかった、とか。
ブログが今月は〇〇万PVしかいかなかった、とか。
〇万円のジャケットが買えなかった、とか。
でも、それって、
ほんとーに、ほんとーに、ほんとーに、大事なことか!?
結局、それって、『数字』を崇拝してるだけなんじゃないのか??
言い換えれば、
『数字』という名の『他者評価』の中で生きてる
だけなんじゃないのか???
それって『権威主義』の一種だよねえ??
人生で大事なのは『数字』以外のものなんじゃないだろうか??
エクセルに打ち出された数字しか見てないと、結局、以下のことしかわからなくなる、
「5より10のほうが大きい。」
いや、これって幼稚園児でもわかることですよねぇ???
アホらしい。
おまえらは永久に『数字』だけが「成果」だと思っとれ。
大事なのは、
「どう生きたか?」
だろう?
これは個人に限らず、その集団や、そのチーム、その国家などが、
「どう生きたか?」
も含まれるだろう。
で、ブログと同じで、その生き様を評価する人もいれば、あまり評価しない人もいる。
そりゃあそうだ。
人間には『好み』があるんだから。
僕自身も、有名なブログでも面白いと思わなかったり、マイナーなブログを熟読してたりもする。
仕方ないだろう、それが『好み』なんだから!
『数字』でしか人や物事を判断しなくなったら、人間は終わりだ。
それが、
西洋列強が迫ってきて「生きるか?死ぬか?」の明治時代
焼け跡から始まり「アメリカに追いつけ!追い越せ!」の戦後、
ならともかく、そもそも、
「プロダクトの『生産性』」
がカンストしたこの時代に、人や物事を『数字』で判断するなんて、ナンセンスだ!
全ては、
『好みかどうか?』
でいいだろう。
好きなものは「好き」だと言い、
好きじゃないものは「好きじゃない」と言えばいいだけだ。
そもそも、人間や物事に『優劣』なんてない!
考えるな!!
感じるんだ!!
って、ブログ収入を全く気にせずに、自分の『好きなこと』ばかり、毎晩、書き散らしてる、こんなブログが『バズってどうする!?』